とある阿呆の随想録

阿呆の徒然なる日々

愛することは理解すること

 

普及版 リトル・トリー

普及版 リトル・トリー

 フォレスト・カーターのリトル・トリーは、著者の少年時代を描いた小説だ。

 著者はネイティブアメリカンのチェロキー族で、祖母と祖父に育てられる。白人社会で、差別や、チェロキー族のしきたりなどを経験する著者。読後感は、至って清々しい、良書だ。

 祖母が著者に語る場面。人の心について。

 誰でも二つの心を持っている。ひとつの心は、ボディー・マインド、つまり体を生かし、守る心。もうひとつは、スピリット・マインド。もし欲深くなって、ズルいことばかり考え、人を傷つけ、利用したりしたら、スピリット・マインドはどんどん縮んで木の実ほどになってしまう。
 体が死ぬと、ボディー・マインドも死ぬ。でも、スピリット・マインドは生き続ける。生きてる時に小さなスピリット・マインドだった人間は、生まれ変わってもやっぱり小さなスピリット・マインドしか持てない。だから、何も深く理解するすることはできない。そうすると、ボディー・マインドがのさばって、スピリット・マインドはますます縮んで、豆粒みたいになってしまう。もうスピリットをなくしたのと同じなんだ。
 それは、生きてるのに死んでる人ってことなんだ。そういう人は、女の人を見るといやらしいことしか考えない。他人を見ると、ケチばかりつける。木を見ると、材木にしたらいくら儲かるかってことしか考えない。キレイなことなんかちっとも頭に浮かばないのさ。そんな人はうようよしている。
 スピリット・マインドってのは、使えば使うほど大きく強くなっていくんだ。どうやって使うか。物事をきちんと理解するのに使うんだ。ボディー・マインドの言うままに、欲深くなったりしないこと。努力すればするほど理解は深くなっていくんだ。
 いいかい、理解というのは、愛と同じなんだ。でも、勘違いする人がよくいるんだ。理解してもいないくせに愛しているふりをする。それじゃなんにもならない。
 
 この場面は、チェロキー族の自然観や宗教観が色濃い場面だ。ネイティブアメリカンの自然観は、日本人のそれと似ていると、よく耳にする。なんだか、この祖母の言葉は感じるものがあった。
 勝手に解釈すると、ボディー・マインドとは、本能的で自己中心的な心のことで、スピリット・マインドとは、理解しようとする心、愛する心のことで、ともすればそれは、偽善となってしまう、ということだろうか。

 この小説では、主に著者と祖父との交流がメインで、この祖父がまた、口は悪いが愛のある人だ。
 
 祖父のユーモラスな場面。英語に対する不満をぶっちゃけるシーンだ。

 ニュー(knew)、というのは新品の品物のことだ。だから知っていたというのならknowedだ。

 また、祖父と祖母はI love youのかわりに、I kin ye. と言う。それはI understand youという意味である。

 ここでも、愛と理解は同じであるという考えが反映されている。人は理解できないものを愛することはできない。ましてや理解できない人や神に愛を抱くことはできない。だからこそ、理解することは愛することなのである。

 この物語は、少年が祖父母から愛とは何かを教わる物語、といっても良いかもしれない。

 最後に、僕がとても内省させられた場面。

 行商人のワインさんが少年に語る場面。

 ケチと倹約は違う。お金を後生大事にして、使うべき所に使わないお偉方。それがケチだ。倹約とは、使うべきところにはお金を惜しまないが、決して無駄には使わない。
 ひとつの習慣は、もうひとつの習慣につながっていく。そうやって次々と身についた習慣が悪い習慣だと、人の性格を歪める。お金にルーズだと、時間にルーズになり、考え方すべてがルーズになってしまう。

 続けて、ワインさんは、みんながそうなると政治家がのさばってしまうのだ、と語る。

 僕も、良い習慣を身につけたい、とつくづく思う。

不登校の代償

 ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』。これは、様々な年齢、国籍の少年たちが漂流して、未知の無人島にたどり着き、みんなで強力してサバイブする物語である。

 大人から切り離された状況においても、少年たちは立派に小さな社会を作り、無人島生活を送る。
 
 学生時代は不登校で、普通の集団生活をも送らなかった僕には、この作品は感じるものがある。

 終盤にはみんなが団結し、仲間の罪を許し、大きな敵に立ち向かう勇気を得る。

 作者のジュール・ヴェルヌは、物語の最後をこう締めくくっている。

どんなに危険な状態におちいっても、秩序と熱心と勇気とをもってすれば、切り抜けられないことはないのである。…中略…少年たちは、いろいろな困難によって鍛えられたために、国に帰ったときには、下級生は、ほとんど上級生のように、上級生はおとなとおなじように、りっぱな人間になっていたのである。

 考えてみれば、僕は不登校になって大人になるまで、秩序と熱心と勇気がすこしでもあったろうか。

 中学のとき、久々に学校へ行くという時は多少なりとも勇気を必要とした。それぐらいだ。

 学校へ行かないことは悪いことじゃないし、辛いなら休むべきだ。死ぬくらいならなおさら。

 でも、そのあとのフォローは大事だ。いつまでも秩序と熱心と勇気を持たないままであったゆえに、僕は大人になった今、社会生活や集団行動、人と関わることが辛い。

 人の輪に入ることを避け続けたから、息苦しいのか、生来の性質からきているのかは実際のところ分からない。

 僕はとりあえず、それを個性として受け止め、開き直ることにする。

期待効果…欲しいと思えば手に入る

 心理学で、「期待効果」というものがある。

 自分、あるいは他者に期待すると、実現する確率が高まるというものだ。

 「自分はできる」と期待すれば本当に「できる」ようになり、「○○がほしい」と心の中で強く願っていると、まさしくその自分が望んでいるものが手に入るようになるのです。
 ジョジョの奇妙な冒険が教えてくれる 最強の心理戦略 (神ビジ)

 「自分なんかどうせ…」と思いがちな僕には朗報だ。

 「こうなりたい」「あれがほしい」と思うだけではなく、実際に行動していくことが大切なんだろう。

 うろ覚えだが、あるインタビューで加山雄三さんが言っていた。船が欲しいという夢を持って行動し、船を手に入れた。手に入れると決めれば、手に入るのだ、と。

 よし、僕も「あれがあればなあ…」ではなく「手に入れる!」という気持ちでいこう。

 いや、むしろ「もう既に手に入った」ぐらいが良いかも知れない。