とある阿呆の随想録

阿呆の徒然なる日々

近代詩三選 高村光太郎 峠三吉 与謝野晶子

 かつて通信大学生だったころのレポート。
 課題は、タイトルの通り、近代詩を3つ挙げて詳しく述べよ、というものだった。

 しかし、提出することなく大学を辞めてしまった(爆)
 せっかくなので(?)、加筆して上げみる。

 ひとつ目は、高村光太郎のぼろぼろのダチョウ。
 内容がシュールで笑えたのでこれにした。

 当時、大阪出身の詩人を選びたいというよくわからない拘りがあって、あとの二人は大阪出身である。

 ふたつ目は、峠三吉。原爆の悲惨さを詠っている。読んで衝撃を受けた。ひとつめの詩とギャップありすぎだ。

 3つめは、与謝野晶子が、戦争へ行った弟を想った詩。感動したので、これを選んだ。

高村光太郎 ぼろぼろの駝鳥

『何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。動物園の四坪半のぬかるみの中では、脚が大股過ぎるぢやないか。頸があんまり長過ぎるぢやないか。雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。腹がへるから堅パンでも食ふだらうが、駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。人間よ、もう止せ、こんな事は。

「ぼろぼろの駝鳥 高村光太郎」』(谷川 1990:pp.16-17)   

 高村光太郎は一八八三年、東京に生まれた。学生時代から「明星」に投稿を行っていたが、彫刻を学ぶため、欧米に留学する。大正四年に初の詩集「道程」を発表する。昭和三十一年四月二日、七十三歳で亡くなる。    

 「ぼろぼろの駝鳥」が発表される前、彼は欧米に留学している。彼は西洋の自由の精神に触れ、帰国したのである。しかし、当時の日本はまだ発展しておらず、日本人の閉鎖的で、封建的な精神に彼は絶望した。また、父で彫刻家の光雲が名誉を優先しているとして批判し、光太郎は一時、彫刻から離れてしまう。この詩集には彼の西洋への羨望と、日本人への批判が込められているのである。  

 「ぼろぼろの駝鳥」は、動物園にいる駝鳥の姿に、光太郎が自分を重ね合わせた詩である。日本という窮屈な世界で、自由な芸術活動を制限されていると感じた光太郎自身のことである。つまり、この詩は社会で孤立を感じている光太郎の、怒りが表現されているのである。  

峠三吉 仮繃帯所にて

『あなたたち 泣いても涙のでどころのない わめいても言葉になる唇のない もがこうにもつかむ手指の皮膚のない あなたたち

 血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ 糸のように塞いだ眼をしろく光らせ あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ 恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが ああみんなさきほどまでは愛らしい 女学生だったことを だれがほんとうと思えよう 焼け爛れたヒロシマの うす暗くゆらめく焔のなかから あなたでなくなつたあなたたちが つぎつぎととび出し這い出し この草地にたどりついて ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

 なぜこんな目に遭わねばならぬのか なぜこんなめにあわねばならぬのか 何の為に なんのために そしてあなたたちは すでに自分がどんなすがたで にんげんから遠いものにされはてて しまつているかを知らない ただ思つている あなたたちはおもつている 今朝がたまでの父を母を弟を妹を (いま逢つたつてたれがあなたとしりえよう) そして眠り起きごはんをたべた家のことを (一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない) おもつているおもつている つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまつて おもつている かつて娘だつた にんげんのむすめだつた日を』
(吉田 1990:pp.271-274)

  峠は大正六年に大阪市で生まれ、十二年に広島市の小学校に入学する。十四才ごろから詩を書き始める。昭和二十年に原爆被災に遭い、二十六年には「原爆詩集」を発表する。二十八年、三十七歳で亡くなる。     

 原爆の悲惨さを伝える作品は多くあり、この「原爆詩集」もその一つである。「仮繃帯所にて」はこの詩集に収められた一編である。
 詩の序盤から中盤にかけてはその凄惨さが際立っている。終盤では戦争への憤りと、平和への強い願いが込められている。吉田(1990)は、この詩における怒りとなげきは一方に於いて戦争に対する激しい抗議をこめている。それは我々を深く感動させ、戦争を忌避し、平和を願う心を推し進める力を持っている、と述べている。(p.282)         

 途中、ひらがなで繰り返しているのは、強調とリズムをとるためである。

 峠は爆心地から三キロ離れた自宅で被災した。その時に、日記やメモで状況を記録し、それが六年後の詩集に繋がるのである。峠が、原爆詩集の発表を決意したのは、鳥羽(2014)によると、アメリカが朝鮮での原爆使用を考慮中であるというトルーマン大統領の声明に接したため、という。
 しかし当時、峠の詩は検閲で雑誌から削除されたとか。

与謝野晶子 君死にたまふことなかれ

『君死にたまふことなかれ 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて

 あヽをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。

 堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり。

 君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戦ひに おほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこヽろの深ければ もとよりいかで思されむ。

 あヽをとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ、すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは、なげきの中に、いたましく わが子を召され、家を守り、安しと聞ける大御代も 母のしら髪はまさりぬる。
 
 暖簾のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を、君わするるや、思へるや、十月も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならで あヽまた誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ。』

 与謝野晶子は一八七八年、現在の大阪府堺市に生まれた。一九歳ごろから、文学会などに参加して短歌を作り始める。二四歳で、歌集「みだれ髪」を発表する。二七歳の時、日露戦争が勃発、「明星」に「君死にたまふことなかれ」を発表する。一九四二年、六五歳で亡くなる。  
            
 詩の意味は以下である。第一に、親が君を今まで育てたのは、剣を握り、敵を殺して死に行かせるためではない。第二に、君は商人であり戦争は私達には関係ない。第三に、天皇は自ら戦いには出ない。人を殺して死ぬことが名誉とは思っていないはずだ。第四には、先立たれる父と母はなげくだろう。最後に、残される新妻はどうすればよいのか、誰を頼ればよいのか、生きて帰ってこい、と詠んでいる。                 

 晶子には、二歳年下の実弟である籌太郎がおり、二人は仲が良かった。弟が遼東半島南部の旅順に行く事になると考えた晶子は気が気でなかった。なぜなら、旅順では激戦が予想されたからである。この詩は最愛の弟を案じて詠まれたのである。また、中村(1994)によると、晶子はヒューマニズムの視点から、人間として戦争に反対した、という。

 弟は戦争から帰還して、与謝野晶子よりも長生きしたらしい。実は旅順に配属されてない可能性が高いとか。

 それから、この時代はまだ言論統制が激しくなかったので、こういう詩を公開できたらしい。それでも、天皇のことに言及したため、批判されたようだ。